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被災後コミュニティー開発と市民社会

被災後三年、椿の島から

すん子さんのこと

熊谷すん子さんは昭和2年(1927年)気仙沼市大島生まれ、今年87才になる。すっかり腰が曲がって小さくなったが、女学校時代は文武ともに優等生、有望な水泳の選手で、日本体育大学にも入れるはずだったと、そう語るときはとても誇らしげだ。

彼女の夫は今回の震災前になくなっているが、9回、市議として働いた島の逸材であり、生前、勲章ももらったという。米穀、燃料、薬品、食料品などを手広く扱う商家として、家業は島最大のものだった。大勢の雇人がいて、4年おきに店と住まいのたたみ九十畳を打ち直したという。豊かな家財もあったのだろう。「宮古屋」という屋号は、島では格別の響きを持つ。しかし、すん子さんはえらぶることなく謙虚で勉強家であり博識。俳句をたしなみ、民話の語り部でもある。かつ並外れた記憶力を持っているゆえにいわば大島の生き字引、島で最も尊敬されている人といえる。

彼女は人生に、地震と津波を3回、さらに隣接の建物からの出火からの家屋全焼などの災禍を経験している。そのたびに家業を再興したが、3年前の津波で、店はすべてが流れ去った。被災後、一人身だったすん子さんは3カ月半、島内を転々とし、7月になってから現在の大島中学校につくられた仮設住宅に暮らすことになった。島を出ていた息子夫婦がお母さんを1人のままにすることはできないと、島に戻り、今は仮設で一緒に暮らしている。

「全部なくなりました。」すん子さんは静かに、そして確固として言う。仮設住宅の中で、すべてを失ったという彼女の心にどれほどの思いがあるか、私にははかりようもない。すん子さんはよい顔をしている。若い時のはなやかさはないかもしれないが、おだやかで目鼻立ちの整った顔で、にこやかに笑う。

私にはこの災害を経てなお、穏やかであるすん子さん、さらには決して少なくない優しさのある島の老人たち、とくにおばあちゃんたちに、感激する。こんなにもひどい経験と環境のなかで、静かに耐え続けていられるのはどういうことだろうか。もっと憤ったらいいと思えるが、もしかしたらそうではないのかもしれない。つい最近、仮設に訪ねたとき、「自分の葬式は自分の家から出したいと思っていたのだけど、このぶんでは、家ができるのと、死ぬのとはどっちが先でしょうかね。」と淡々と言った。被災3年4か月、復興住宅の建設はまだまったく予定が立たない。

私は災害後、初めて東北の人と心に出会った。中でもすん子さんにあえたことは、どれほど東北の、その中の履行に生きる人を知る豊かな出会いを与えてくれただろうか。 すん子さんに昨年、ワシントンの女性たちのウェブ季刊誌に句を載せさせてくれないかと頼んだら、彼女自身インターネットに全く縁がないにも関わらず、すぐに快く書き送ってくれた。 そして今年2015年になってからまた新しく作られたら書き送って下さいと願ったら、多くの句を送ってくれた。 だいぶ弱りがちとは思うのだが、電話口で、「駄句ですけれど」と明るい声で言われた。
「先生、今は寒いから、暖かくなったら来てくださいね。」とこちらをいたわる。
私が何回もあった、すん子さんの仮設の棟に暮らしていた、優しい顔のおばあさんの訃報をきく。
もうすぐ被災後4年の歳月となる。

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更新日: 2015/01/26 -04:13 PM