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幕が下りてから3 浅沼 信爾

伊勢湾台風の想い出
今年は2011年3月11日に起こった東日本大震災からちょうど10年になる。東日本大震災というと原子力発電所のメルトダウンとその直接の原因となった津波のことが思い起こされる。そしてそれと並行して思い出されるのは、わたくしの個人的な経験で、1959年に伊勢半島を襲った伊勢湾台風だ。昭和の三大颱風の中でも最大規模の台風で、地震と同時に起こった高潮の影響も相まって多大な家屋、船舶、道路、等々のインフラの喪失と死者行方不明者合わせて5,000人という人的被害を伊勢湾に面した三重県と愛知県にもたらした。

幕が下りてから3
2021年3月11日
浅沼 信爾

動く大地、移動する境界線

伊勢湾台風の想い出
今年は2011年3月11日に起こった東日本大震災からちょうど10年になる。東日本大震災というと原子力発電所のメルトダウンとその直接の原因となった津波のことが思い起こされる。そしてそれと並行して思い出されるのは、わたくしの個人的な経験で、1959年に伊勢半島を襲った伊勢湾台風だ。昭和の三大颱風の中でも最大規模の台風で、地震と同時に起こった高潮の影響も相まって多大な家屋、船舶、道路、等々のインフラの喪失と死者行方不明者合わせて5,000人という人的被害を伊勢湾に面した三重県と愛知県にもたらした。

当時わたくしは大学生で上京しており、伊勢市に住む母親を心配してずたずたになった鉄道網を乗り継ぎながら伊勢市に帰郷したことを覚えている。幸い家族も家も無事だったが、わたくしにとっての最も辛かったのは伊勢湾台風の結果としてわたくしの少年時代の想い出の故郷が失われたことだ。我が家は第二次世界大戦の終戦直後に近くの農村に疎開したが、そこでの貧しい小学生生活を楽しくしてくれたのは近くの伊勢湾に面した海岸だった。美しい遠浅の広い砂浜に続いて松林の防風林がある。地引網漁があれば子供たちが集まり、手伝いをすれば小魚を駄賃に貰える。小学校の卒業試験と称して、先生が漕ぐ小舟に先導されての一時間遠泳もある。中学生になって街に戻っても、夏になれば伊勢湾に浮かぶ答志島の小学校に合宿をして毎日泳いだり、魚取りをしたり、宿題をしたりして過ごした。すべて広い遠浅の海岸が舞台だった。遠浅の海岸だから―そして伊勢湾はとても豊かな海だから―海岸には海から流れ着いた海藻や流木が砂浜に積み上がり、その先には浜木綿などの咲く小さな砂丘があり、そのまた先に松の防風林がある。それを抜けると田圃が広がり、村落があり、小学校や郵便局があった。これがわたくしの故郷だった。

しかし、伊勢湾台風後数年でそうした風景は一変した。海岸には狭い砂浜を残して高さ数メートルのコンクリートの防潮堤が築かれ、狭い砂浜にも多くのテトラポッドが投げ込まれ、遠浅の広い砂浜は消えてしまい、村落も輪中に囲まれた小型の要塞みたいな存在になった。自然に開かれた空間とその解放感は、コンクリートの壁に囲まれた閉塞感にとって代わられてしまった。

同様に東日本大震災の被害地でも、各地で復興計画の一環として高さ10メートル前後の巨大な防潮堤が築かれたそうだ。後ろに道路しかないところにも、同じ基準で海岸線に沿って作られたと報道されている(宮城県知事村井嘉浩氏の朝日新聞インタビュー、2020年12月22日朝日新聞朝刊)。やはりここでも、多くの人にとって想い出の故郷は失われたのではなかろうか。

われわれはどうして海岸線や河川や、ひいては国境線などの地球の上に引かれた人工的な境界線に拘るのだろう。われわれは、一度境界線を引くとそれが未来永劫変わらないあるいは変わっていけないと思い、災害などの後で常に「現状復帰」に精を出す。例えば、伊勢湾に面した伊勢平野は小さいと言っても、海岸線が数百メートル下がっても何の問題もない。伊勢湾台風のために伊勢湾に面した海岸線は大きく浸食されたし、また台風や津波に備えるためには何らかの対策が必要なのは理解できる。しかし、海岸線を例えば300メートル後退させ、防風林の幅を300メートル広げれば、数メートルの防波堤は作る必要がなかったのではないか。そうすれば、わたくしは想い出の詰まった故郷を失うこともなかったのではないか。

バングラデシュ・ジャムナ河氾濫の教訓
防災のためにはコンクリートの壁を張り巡らすのもやむを得ないのかと諦めていたわたくしに、もっと良いアイデアがあるはずだと考えさせられたのは、うんと後になって世界銀行でバングラデッシュの開発政策や開発融資の仕事をしていた時のことだ。  1988年、バングラデッシュを世紀の大洪水が襲った。もともとバングラデッシュは西のインドを通って流れ込むガンジス、インドの東北から南に向かって流れるジャムナ(ブラマプートラとも呼ぶ)、東から流れるメグナという三つの大河の氾濫原にできた国で、水災害は日常茶飯だ。しかし、1988に起きたジャムナ川の氾濫はすさまじく、国土の70%が洪水に見舞われ、都市部では建物や住宅の浸水被害、農村部では稲作被害の他に家畜も被害に遭い、当時の新聞報道では3000人とも5000人とも言われる死者を出した。

普通の国ならば、規模自体は大小あったにしてもほとんど定期的に繰り返される洪水被害を防ぐために強固な堤防を構築しようとする。しかし、バングラデッシュではことは簡単ではない。特にジャムな河は「生きていて、動く河」だからだ。多分地球の自転とベンガル平野を吹く定期的な偏西風の影響なのだろうが、ジャムナ河は1830年以来現在までに平均で4キロ以上、上流地域では最大13キロも西に動いている。より確かな計測が存在する1970年代初頭からのデータによれば、年平均50メートルほど川筋全体が西に移動している。川の流れを固定するためには強固な堤防が必要になるが、何しろバングラデシュは氾濫原の泥の上に存在する国で岩盤は深く、なだらかな傾斜を持った盛り土の堤防を作るのが一番合理的だ。だが堤防を作るためには貴重な田圃を犠牲にしなければならない。耕作可能土地面積当たりの人口密度で世界最高と言われるバングラデシュの場合、田圃にできる土地は貴重な資源だから、田圃を残すかそれともより高い堤防のためにそれを犠牲にするかのトレードオフは政策決定に決定的に重要になる。

このトレードオフを考慮して伝統的にバングラデッシュが採ってきた方針は、20-25年程度は耐用が見込まれる堤防を、特にジャムナ側の右岸―すなわち西側―に作る。そうすると当然のことに50年に一度来るような大きな洪水に見舞われると、長い河川のどこかで堤防決壊が起こる。決壊が最も起こりやすいのは河川の西に向かっての移動が大きい所だ。このような場所では決壊した所にもう一度堤防を建てても再度決壊が起こる可能性が高い。そこでベンガルがいまだイギリスの植民地だった時代に植民地政府の技術官僚が生み出した実に賢明な政策は、決壊した堤防は「引退(リタイア―)」させて西側に数百メートル後退させたところに新しい堤防を作るという策だ。長い経験からこれが最も経済的に効率的な堤防構築とその修復方法だと考えられてきた。元の場所に堤防を作るとすればより強固で高い堤防が必要になるが、建設費は高くなるし、何しろ強固な堤防を作るためには多くの田圃を犠牲にするしかないからだ。

堤防の引退は合理的なアイデアだが、どこででも引退ができるわけではない。例えば、堤防を200メートル引退させようとしても、そこに別の支流が流れている場合には、ジャムナ河の本流がその支流に入り込み、ジャムナ河自体の流れが変わる可能性がある。ジャムナ側のような大河が流れを変えれば、これは大変なことになるのは眼に見えている。この場合、何としても堤防を後退させずに、流れが変わらないような強固な堤防を決壊した場所に作らざるを得ない。また、リタイア―しようとする場所に都市があるとする。都市は農村部と違って多くの建物、住宅を始め、商業・産業インフラが詰まった場所で、それをすべて放棄して撤退するとなると経済的な損失が大きすぎる。この場合にもまた、建設費の多寡は問題とせずに流れを変えないような強固な堤防を築かなければならない。

決壊した堤防をリタイア―させるかどうか、そして新たに作る堤防をどの程度強固にするか、例えば25年に一度の洪水に堪えられるような堤防かあるいは100年に一度の大洪水に堪えられるようにするかの判断は、うえの議論から明らかなように古くから使われてきた投資の費用便益計算―コスト・ベネフィット・アナリシス―によるわけだ。

標準的な堤防建築プロジェクトの費用便益計算の原理は簡単明瞭だ。費用側には堤防構築に必要な田圃や堤防の資材それにブルドーザー等の建築機材、労務者コスト等がすべて含まれる。一方の便益の中には、大小の洪水によっておこる農産物、家畜、田圃、道路や家屋などの農村インフラ及び人的被害額が含まれるが、それらは毎年あるいは決まった周期で起こるわけではないから、過去のデータを参照しつつ確率的に起こるという前提をたてざるを得ない。ジャムナ河については相当詳しい時系列データが存在するが、それでも将来の確率的な事象となると確かなことは言えない。しかし、それでも標準的な費用便益分析を使えば、使わない場合に比べては格段に合理的なプロジェクト形成と投資判断が可能だ。

ただし、この手法を使うときに注意する必要があるのは、ここでいう費用も便益も、国の経済全体にとっての費用と便益で、堤防建設に影響を受ける農民等の土地所有者や建設に携わる業者や企業といった特定のグループの費用や便益ではないことだ。そこで、関係するステークホルダーの間で、費用と便益をどのように分担・配分するか、それを決めるための方法は決まっているのか、また分担や配分を行う法律や制度は出来ているのかが重要な問題になる。

堤防を引退させるための費用項目で一番問題になるのはそのために失われる田圃だ。先に述べたようにバングラデッシュの人口密度は世界最大と言っても良いほど高い。だから、失われる田圃の所有者や小作人のために充分な替地を用意することは出来ない。いきおい金銭による補償ということになるが、利権と汚職のはびこるバングラデシュで、本当に充分な補償等はほとんど不可能だ。替地の可能性もあるにはあるが、これは今まで考慮されてこなかった。堤防の引退で失う土地がある一方で、河川の移動に伴って新たに生まれる土地がある。ジャムナ河の水流が右に―すなわち西に―動くと、広い河川の東側に中州が生まれる。差し引き完全にゼロというわけではないが、それでも必要な替地の一部にはなるほどの大きさだ。しかし、バングラデシュでは「チャー(char)」あるいは「チャーランド(charland)」と呼ぶこの新しく生まれた中州を替地に使うという発想が生まれなかったのはまったくの不思議だ。

チャーランドは誰のものでもない。そこでチャーランドが河面に顔を出した時点から熾烈な争奪戦が始まる。新しく生まれた中州は、3年間は耕作不可能だ。しかし、中州ができると同時に人々が入り込んできて、周りに線引きをしたうえで、掘立小屋を建てて住み始める。3年間我慢すれば、そして3年間住んでいたという証明があれば、この新しい土地は法的に彼の所有物と認められるからだ。3年の我慢だが、この間の生活のための食糧その他の物資は必要だ。一人でできることではないし、また誰かが3年間無駄飯を喰うのだから貧乏人ができることではない。そのうえに、3年目に差しかかったところで大きな試練が待っている。ちょうど3年目になる直前に、だれかに雇われたゴロツキ達がやってきて住民を追い立て、チャーランドの権利を横取りしようとするからだ。時には命が失われる壮絶な地権争いに勝ち残ってはじめて土地の権利が手に入る。わたくしがこのチャーランド争奪戦を知ったのはもう四半世紀前のことだが、状況は今でも変わっていないと思う。無法の世界は恐ろしい。新しく生まれるチャーランドは堤防の引退で田んぼを失った人に優先的に与えられる制度を作るだけで、事態は格段に良くなっていたはずなのに。

動く境界線の政治経済学
現在地球温暖化が進行しているのは間違いない。そして、今後地震、津波、洪水等々の自然災害が大規模化し、また頻繁に起こるようになることが予測される。そのたびに大地が動き、そのうえに引かれた海岸線や河川等の境界線も変わってくることを強く意識するべきだ。現在行われている護岸工事計画や防潮堤建設計画を見ると、いまだに河川でも海岸線でも一度引いたら未来永劫不変を前提にしているような気がしてならない。そのために失われるのは景観だけではない。防災工事の費用便益が無駄な工事費用によって低くなってしまう。

このような防災プロジェクトを計画するときには、できるだけバングラデシュのジャムナ河で長年実行されてきた「河川や海岸線の引退」という概念、すなわち境界線が常に動いていることを意識したプロジェクト策定が望ましい。この提案は全ての公共事業に当てはまるが、現在積極的に「引退」の概念を使うのが躊躇われているのは、多分現在の土地所有制度の下では「公共の利益」と「個人の財産権」との折り合いが悪く、公共事業プロジェクトが必ずしも円滑に進められないのはそのためだと考えられる。例えば、個人の所有する土地を公共事業プロジェクトのために収用する場合に「補償」という概念が使われる。補償の意味するところは個人の所有者が蒙る損害に見合うだけの金銭上あるいはその他の手段による不利益の相殺だ。多分それでは不十分で、補償ではなく、そのプロジェクトを実施することから得られる公共利益の分与(すなわちプロジェクト収益の応分のプロフィットシェアー)のようなよりポジティブな概念を使ってはどうだろう。「ここにこういう公共プロジェクトがある。その実現のためにあなたの土地が必要になるので、応分の対価は支払うから土地を売ってくれないか」というお願いではなく、「このプロジェクトは国民皆のためになる。これだけの投資をすればこれだけの利益が得られる。しかしあなたの土地が必要だ。その土地を現物出資するという形でこのプロジェクトに参加しませんか。もちろんプロジェクトから揚がる利益は出資者全員で分けます」ということになる。もちろんそのためにはしっかりしたプロジェクト・アナリシスが必要で、その分析の下では個人の土地所有者はプロジェクトに対する現物出資による投資家の一人となるという設定だ。言うは易く実行は難しい提案なのは承知の上だが、試してみる価値のあるアイデアだと思う。

それにしても、われわれの境界線に対しての固執は何に由来するのだろう。海岸線や河川ばかりでなく、土地の上に人工的に引いた国境線や、もっとミクロの世界では自分の家と隣りの家の境界線等も含め、境界線に拘る人の多さにはあきれるほどだ。それが居住者の基本的人権や生活の糧などの経済的利益が関わる場合は理解できる。しかし、あちこちで起こっている国境紛争の例などを見てみると、例えば地上に引いた線を1キロメートル後退させた場合にどのような国民的な不利益が起こるのか皆目理解できない場合にも多大の費用をかけて軍を動員したり軍事施設を作ったり、軍事的な手段に訴えない場合でもそれ以外の「外交的資源」を使ったりする。「国家の領土を保全する」等の理由による国境紛争も、ある意味われわれの境界線に対する固執の表現だ。国境線も歴史的には実に流動的に変わってきた。それにもかかわらず、法律や条約で未来永劫不変を意図して固定化して、変更には目くじらを立てて抵抗する。われわれの住むのは人間社会なのに、まだわれわれが霊長類だった当時の縄張り争いの本能がのこっているのだろうか。当時の縄張り争いは食糧確保や人口の拡大再生産のため、すなわち生存競争に不可欠だったが、現在ではそうでなくなっているにも関わらず、本能としてわれわれのDNAにしっかりと根を下ろしているのだろうか。

わたくしは国境線についても海岸線や河川と同じく「移ろうもの」という認識を持つことが望ましいと思う。場合によってはバングラデシュのジャムナ河堤防の「引退」のような方針さえ望ましい。そして、皆がそのような柔軟な考え方を持つように、「共同統治(Co-habitation)地域」とか「国連信託地域」とか硬い国境線に代る、積極的曖昧さを含む弾力的な概念を作り適用するべきだと思う。

このような考えは全くの夢でしかないのだろうか。個人的レベルで、社会的レベルで、国家的レベルであらゆる境界線への固執を意識的に弱くするだけで、世界は良くなると思うのだが・・・。以上が、わたくしが10年前の東日本大震災を思い起こし、考えたことだ。

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更新日: 2021/03/09 -05:49 PM