MONGOLIA Project
Community Studies & Plannning Database
Community Leadership Program for Women
NPOs, Think Tanks & Democratic Institutions in Civil Societies
post_disaster_community_building_in_civil_society
Think_Tank_Society_takarazuka
UCRCA_archives
UCRCA Report Archives

復興の過程 1.島の選挙:2014春

復興の過程 1.



1.島の選挙:被災3年後2014年春。



島の風はまだ冷たかった。私の側の車の窓を大きくあけてくれという。腰の曲がったすん子さんは窓にとりついて、手を振り、近づいた人の手を握り、「ありがとね、よろしくね、ありがとね」を繰り返す。彼女の姿をみとめたひとは、だれも駆け寄ってきて、手をにぎる。おばちゃんたちは、みな「だいじょうぶよ、すん子ばあちゃん、だいじょぶよ、体にむりせんとね。」
だいじょうぶよ、とは彼女の息子Mさんのこと、翌日に迫った選挙のことだった。
「主人の選挙のときはちっとも心配しませんでしたが、息子のことでは心配で。夜も眠れないのですよ。」すん子さんは声を落としていた。



4月13日の気仙沼市の市議会議員選挙は2011年3月11日の地震と津波の災害以降、始めての選挙だった。市長は対立候補なく無投票で再選された。一方市議会は、定員24名、立候補者26名、少数激戦と言われた。気仙沼市の人口は67,800人、そのうち大島は2,800人、50年前には6,000人ほどあったと言われるが、半減、さらに減少しており、震災後はさらに減少は加速している。

気仙沼市全体の有権者数は57,504名、大島の有権者数は2000人程度と考えられた。前回選挙では大島は市議会議員を2名出した。ふたりとも1200票をとったという。

私は選挙前の3月、Dr. Jean Renshawを連れて13回目となる大島を訪ねていた。いつも島を訪れるときは、仮設住宅に暮らすすん子さんを訪ねる。その時は仮設の集会室にすん子さんと6人ほどのおばちゃんたちが集まっていた。仮設からいつ出られるか、見通しのつかないつらさの話の中で、Jeanが、島の議員は何をやっているのかとたずねると、おばちゃんたちはみな一斉に口をそろえて、一人は1度来たけれど、ここ3年間一度も仮設を訪ねてきたことはない、「あいさつもなければ、頑張ってくださいのひとこともない、何に困っていますかもないんですよ」、「噂によれば、支援金も支援の物資もごまかしたというんですよ。」と苛立たしげに話してくれた。

「それはないでしょう。」私とJeanと唖然とした。島から出ている市議が、仮設の被災島民に、これまで会いに来たことがないとはいったいどういうことか。そんな市議を選んではいけない、そんな市議を選んできたのはよくないことですよ。私たちはおばちゃんたちが打ってでたらいいのに、と言った。その時みなが、すん子さんをみつめた。すん子ばあちゃんは私にむかって、実は、息子が立候補することになるようなんです、ここでいうと、事前活動になるかと思うんで、まだ公示前なので言いにくいのですが。」ととつとつと言ってくれた。私もよく知っているすん子さんの次男だ。「わあー、それはいいわね、、頑張ってほしいわね!」私が大きな声をあげると、おばちゃんたちは深くうなずいてから、こぶしをあげて、がんばろうねとすん子ばあちゃんを励ました。



すん子さんの話。

熊谷すん子さんは大島生まれ、1926年生まれだから今年88才になる。すっかり腰が曲がって小さくなったが、女学生時代は水泳の有望な選手で、日本体育大学にも入れたと、これをいうときはとてもほこりがましい。彼女は実に勉強家であり知的好奇心に満ちて、俳句をたしなみ、民話の語り部でもあり、かつ並外れた記憶力を持っているゆえにいわば大島の生き字引、島で最も尊敬されているひとなのである。彼女の夫は今回の震災前になくなっているが、9回市議として働いた、すぐれた人材であり、勲章もえたという。家業は大きく発展してきた。宮古屋には大勢の雇人がいた。4年おきに店と住まいの畳100畳を打ち直したという。豊かな家財もあったものだろう。屋号は島でとても尊敬されるものであった。(島の選挙では、立候補者名と屋号の両方が使われる。)

彼女の人生は、地震と津波を3回経験している。そして3年前の津波で、店は全壊、そしてすべて流れ去った。

「全部なくなりました。」すん子さんは静かにそして確固としていう。仮設住宅の中で、
すべてを失ったという彼女の心にどれほどの思いがあるか、私にははかりようもない。

でもすん子さんはよい顔立ちをしている。若い時のはなやかさはないかもしれないが、おだやかで目鼻立ちの整った顔で、にこやかに笑う。



島の選挙

選挙に出ようという息子Mさんの決意は公示の1か月前に土壇場で固まった。彼はもともと二男で、若いうちに島を出ていた。被災以前に、すん子さんは長男と夫とに死に別れていて、そして守っていた家を津波ですべて失った。一人になった母親を見ることと家業をつぐためにMさんは津波直後から奥さんを伴って島に戻り、仮設にすん子さんと同居しての暮らしを始めた。その中で島の復興として巨大防潮堤建設の話が起こる。

Mさんは島の人として、かつ次男でいったん島の外に出たひととしては珍しく、はっきりものをいう。大きな声で、おかしいことはおかしいという。大島の住民はいくつかのステップをふみながら、島の未来を考える集会を開いてきた。その過程で、最初は遠慮がちだったがMさんは次第に意見を言うようになり、かつ行政に調べに行き、新聞に何度も投稿するようになった。その中で、肩書のない、一介の住民では何も変えられない、ことに行政は、1個人が何を言っても聞かない、動かない、取り上げてももらえないことに憤然とし、それならばと、市議選に出ることを決意した。正義感の強い、使命感の強い、曲がったことが嫌いだと、すん子さんは息子を心配する。

彼は島の古さをよく知っている。次男で外に出たものは、よそ者になる。島での発言権は弱い。とてもまともに選挙で勝てる立場にはなかった。だが、彼の強みは、実はすん子ばあちゃんにある。宮古屋という屋号の強さである。そしてすん子さんのなくなったご主人の消えない人望と9期にわたる市議の実績である。

選挙が終わって2週間ほどの5月の朝、すん子さんから電話があった。「9回やった主人の選挙より、今度の選挙がどれほどか疲れました。終わってから具合が悪くて病院に通ったです。でも先生、先生が応援に来てくれてどれほどありがたかったか。大学の先生がきてくれたって、みんながびっくりしてくれたんですよ。」すん子さんと島の人々には、大学は「まだ」栄光を保っている。
私は高校生の時、東京山の手の区で、区議選を手伝ったことがある。うぐいす嬢もやった。女性候補を擁立した地域の選挙は、芽生えた民主主義という青春の催事だった。

それ以降、私は海外に出ることの多い根無し草として、日本の選挙に関わる機会がなかった。米国市民となってからは、向こうの選挙のほうが身近になった。



島の選挙は、多分、どこでも、規則がためのものであるようだ。票はある程度読めるといわれる。親族関係がよくわかっていることもあって、金が動くというよりは、無形の縁が動いていると言えるかもしれない。

本来、3か月まえには体制を整えておかなければならなかった。後援会組織をつくり、入会申込書を作り、会計監査を置き、会費規定を作り、県に届け出る。立候補するには説明会に出て、25日にはポスター見本をもって、予備審査を受け、申請書に選挙カーに乗る人、うぐいす嬢、事務、会計、立会人の氏名を上げる。



戸別訪問は許されない。新聞に2回広報される。枚数の決められた葉書とポスター。選挙活動はもっぱら選挙カーで連呼することである。Mさんは選挙公報をみてきづいたことがあった。それは立候補者には選挙公約と言えるものがないということだ。市議として何をしたいのか、するのかが、あいまいで無難な、保身のための、議論を呼ばない目的しか書かれていないのである。

Mさんは二つの約束を掲げた。緑の真珠とうたわれた大島を守ること、巨大防潮堤の建設に反対すること、である。そのために市議になる。

選挙とはその公約をかかげて戦うものと思っていた。しかし、選挙カーの上ではそんなことは言わなくていい。島中をまわって一人一人に会う、手をにぎる、それが選挙だ。ひとびとは誰かが来て、手を握ってくれて、助けてくださいと言われることが、最大の楽しみなのだと。主義主張など言ってもらう必要はない。選挙のときぐらいが、唯一の、人が大切にされるときなのだ。だから島中をまわって何人に会って顔を見せられるかが大事なのだ。

大島はしかし気仙沼市の一部で、市議は市全体が選挙区となる。大島の票は気仙沼市内の市議にも行くし、市内の票も島の候補に来る。その意味では、大島独自の問題だけで公約を掲げるのは、厳しいこともある。票読みは大変だったようだ。

さらにこの選挙では、今なお被災者は仮設住宅に居住している。選挙時に、有権者たる住民は気仙沼市内から市外あわせて仮設住宅は90か所に分散していた。公示から1週間、
Mさんはその90か所をすべて、少なくとも名前を連呼してまわった。とても公約の中身の話などする時間はなかった。



当選の知らせは意外に早く届いたという。島の人からの知らせがあった。すん子ばあちゃんは電話の向こうで「ありがとね、ありがとね、」と繰り返していた。1000票、19位で当選、島では1位で当選した。現議二人のうち一人が落選した。    (上野2014)

編集者: .(このメールアドレスを表示するにはJavascriptを有効にしてください)
更新日: 2018/04/12 -11:48 AM