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アメリカのノンプロフィット・独立セクター 逞しい「民主」を生きる市民たち

民主主義というものは、冒険と夢のある市民社会のための開発途上の土壌である。逞しい市民が(女性が!)そのフロンティアを切り開き、造りだすことができる。

1 暮らしの中の市民たち

この冬アメリカの東海岸は記録的な寒波で、ここワシントンも60年ぶりの大雪に見舞われた。降り始めてから3日間、60センチほどの雪をようやくかきわけて家から近隣の道路まで出られるようになった日の夜、向かい隣のリチャードがピザ・パーティーを開いた。特に理由はなく、ただ大雪を祝って(?)の近隣パーティーである。常日ごろ共働きが多く、顔を見ることの稀な近所中の家族がにぎやかに雪道を集まった。

私は家族とともにアメリカで暮らして足掛け15年余り、夫の学業や仕事の関係で3都市7か所ほどを移り住んだ。いずれもアメリカの中産階級のコミュニティーで、こうしたパーティーは移動の多いアメリカ社会で、「普通」の人々である市民と知り合い、また思いがけない有意義な情報が得られる格好の機会である。4,50にもなる集まりは、夫婦、子供入り混じり、子供たちのこと、学校のこと、教育のこと、仕事のこと、政治のことなど、実によくしゃべり議論する。

リチャードは引っ越してきたばかりの夫婦と、彼らがつい最近ロシアから養女として連れてきた子供が、この地域で得られる教育上の様々な便益や、養子をした家族同士の互助組織のことなどを熱心に話していた。それでふと私の知る範囲でリチャードを始め、近隣の家族は幾組かが養子を持っていることに気付いた。

アメリカの社会は家族ひとつとってもここ20年ほどで大きく変化している。1組の夫婦の血縁で揃ったいわゆる核家族という概念ではアメリカの家族を一般化できない。片親のみの家族はもとより、血の繋がらない家族はそこら中にあり、詮索するまでもない。また一方では障害を持ったり、家庭内暴力による家出など、恵まれない環境から養子を必要とする子供の数もまた多い。そうした中で例えばここメリーランド州で養子縁組した子供の数は1994年の1年間で1,400人という。

アメリカ社会は良くも悪くもその変化を激しく先端で受け、また作ってきたと言える。身の回りでも、失業、移動、離婚、再婚、AIDS、麻薬、と問題には事欠かない。アメリカ社会はそれが明らかに表に出て来て、人々が真っ正面でそれに当たっているところに特徴がある。あそこの息子が軍にいてボスニアに行くと言ったことを含めて、アメリカを引き受けているのは、そこに生きる一人ひとりの市民である。家族ひとつを見ても、多くの問題をかかえながら、それでもアメリカ人はその変化に進んで関わり、そしてその変化と困難を開放的に楽しみとする、逞しさを持っている。パーティーの引き際のホールで子供たちがたわむれるのを見ながら、「それにしても、ニコラスはお父さんによく似ているね、いっしょに暮らすと、顔かたちまで似てくるのだろうか」と一人が言い、さてロシアからのこの愛くるしい少女と継母なる人を見比べて困った顔などをして近隣たちは笑いあった。雪道をもどりながら、あのおおらかさと笑いがアメリカの底力だと私は思ったのである。

2 「民主」の国

私がアメリカのノンプロフィットの組織と活動に出会ったのはかれこれ12年ほど前のことになる。きっかけは、その後自分が働くことになったシンクタンクがノンプロフィット・オーガニゼーションであることとも、研究テーマが地域社会や住宅・コミュニティー政策であったこととも関係ない。そうした結びつき以前に、個人的な事情でアメリカに暮らすことになった私にとっての最大の関心は、一人の個人として主婦、女性として、普通の人々の暮らしから、アメリカをわかりたいということにあった。若いころから地域の住民運動や社会参加に関わったものとして、アメリカを知るにつれて、この社会を動かしている原則が「アメリカ帝国主義」といったものではないと感じ始めていた。私は、生活の中から、ここの市民(当時は住民という方があたっていたが)何を考え、どう生き、どのように暮らしているのか、それがどうアメリカの社会を造ることになるのか、この社会がどう動いているのか、といったことを知りたかったのである。その探索の作業、それはつまるところ、日々アメリカ人と同様、衣食住を基本的に確保し、家族と子供とでこの社会で必死に生活するということだったが、その探索の過程で知ったのが、ノンプロフィット・セクターなのである。

この社会には、公務員による役所の仕事でもなく、会社員による営利商業活動でもない、たくさんの場所、活動に、様々な人々が携わっている、そしてそれが社会や生活の中の多くの大切な事ごとを動かしていることがわかったのである。それが市民による、市民社会というものであると気づかされたのである。そうした市民と組織が、人々(や子供たち)に楽しみを与え、また反抗者にならずに健全なる批判者として存在し、かつ積極的な改革の実践者として、社会を豊かなものとしていることに新鮮な驚きをもったのが最初だった。そしてその源泉はアメリカ民主主義、まさに「民主」ということであることがようやくわかってきたのである。

ノンプロフィット・セクター、より的確には、インディペンデント(独立)セクターが表明するのは、社会改革、社会を楽しくすること、現実の社会への働きかけなのである。アメリカの市民にとって「民主」とは「民」が社会を変える、社会へ働き掛けられることであって、それを可能にするのがインディペンデント・ノンプロフィット・オーガニゼーションでありセクターなのである。ノンプロフィット・セクターは運動論としてとらえることができるだろう。

3 運動の経済化と女性雇用

私はここ数年、先のパーティーも含めてあらゆる機会に、私の関心事である日本に独立のシンクタンクを造りたいこと、しかし日本には独立的と言える民間組織が法人格をとる仕組みがないこと、それも非課税となるのは容易でないこと、また税控除となる献金が一般的に認められていないことなどを「普通」のアメリカ人に話してみる。するとほとんどが一様に驚く。実は彼ら自身よくアメリカのノンプロフィット組織のことなどを考えてみたこともないことが多いのだが、それでもすぐに彼らはそのことの持つ意味を理解して次々と質問をしてくる。

「それならどうやって環境を守るのか?」「どうやって政府の間違いを正すの?」「誰がホームレスの面倒を見ているの?」「どうやって消費者は文句を言うの?薬害の摘発は?」「誰が政治家を監視するの?」「一体、市民はどうやって政治に参加するの?」「財団はないの?」「献金はしないの?」…

これらに答えていくと、彼らは気の毒そうに首を振って、それは大変だな、という。このことから彼らには日本の「民主主義」がある程度理解できるからだ。そしてさらに「民主主義は金がかかるのよね」という。確かにアメリカの「民主」には膨大な金と、時間と、エネルギー、知恵がかけられてきたのである。

民主主義に金をかけているということは一方で、それはノンプロフィット・セクター、インディペンデント・セクターが、経済全体のパイを大きくしていることでもある。特に雇用の拡大においては、重要な領域となる。殊に注目すべきなのは、女性の雇用拡大の機能である。福祉を始めとした公益的事業とサービス活動は女性労働が活かされる領域であり、女性が公益的活動を非営利法人として企業化し、経済的に自立しつつ。比較的自由な雇用形態を確保できる。女性の選挙権を求める運動から始まって障害者の自立運動、さまざまな芸術活動まで、女性たちの率先の基で多くの女性が働き、女性ボランティアによって切り開かれてきたのである。これらの独立的な活動がアメリカの農業外の全産業の雇用に占める割合は、11,3%となる(図1)。そしてそのうちの7割が女性の雇用である(図2)。独立的活動の中心にある財団や基金、例えばアメリカのもう一つの政府といわれるようなフォード財団も、世界の紛争の地に即刻、医療援助を展開するアメリカ赤十字も、現在そのトップは女性である。

4 「官主」から「民主」のために:今なされるべきこと

冷戦後の世界は民主主義と自由主義市場の優位を示した。そのチャンピオンとしてアメリカ社会は200年の実践の歴史を誇ることができる。今アメリカ人は民主主義と市場経済化のために世界中を飛び回っている。しかしその一方で、国内の問題も果てしない。進行中の大統領選を見ても、アメリカの社会の問題の大きさ、ひいては民主主義の大変さが顕著に表れている。民主主義というものは、一つの絶対的な正義も価値も示すものではない。民が自らを治めることができるという政治の方法を定めているに過ぎない。どう治めるのかは民自身が考え、選ぶことである。その選択は優れた少数が決めるのではなく、多数が合意しなければならない。民主主義がより良く機能するためには、よく考える多数が、たゆみなく考え試し続けなければならない。そして自分たちが治世の一部を任せ、治めることを委託した人々が、それを頼んだように実行しているか、間違いはないか、そしてより良い、今に代わる知恵を出すことも不可欠なのである。アメリカ人は、その大変さを知り、そして消耗して来てもいるのである。

日本の「民主」は今非常に重要な局面にある。国内の急速な高齢化や金融問題から始まって、アジア近隣諸国の問題まであらゆる側面で「民」の力が問われている。民は知らしむべからず、情報は愚民に知らすことはないという精神のもと、また一方「官」に任せておけばよいとしてきた「官主」社会は破綻を見せている。「官主」から「民主」への社会変革と「民主」のためのシステムを作り出すこと、すなわち、地方自治分権のシステムを作ることであり、これは、緊急性を帯びた仕事である。その意味で民間非営利公益活動法人制度と税制度の問題は、この日本社会の根源にかかわる「民主」をどう育て、どう保障するかという問題である。そしてそれは国際化を必然とする時代に適応できるものとして考えなければならない。

法制度の整備と同時に、NPOの創成、新しい経済領域の創成にはそれなりの資本と人材がつぎ込まれなればならない。しかし日本の硬直した機構から、資源や人材を移すのは容易ではない。ひとつの期待は今埋もれている、膨大な優れて有能な日本の女性たちである。日本の「民主」を切り開くことができる重要な鍵は、女性たちが握っている。

さらにNPO制度の実際の運用のために既存の財団の改革も必要だろう。ここでは詳細には触れないが、独立シンクタンクを複数作ることも不可避の課題である(1)。

従来こうした提案の検討が始まると、それは日本に合うか合わないか、日本の歴史と伝統に即したものかという議論が生ずる。日本には「日本的」なものを形成すべきだということである。しかしすべてが一国内で完結しなくなった、明らかに異なる時代を迎えている現在、「日本的」なるものにこだわり、あえて「日本的」なるものを求めることは問題である。現在の問題、例えば日本の金融にかかわる問題も、実は「日本的資本主義」と「日本的民主主義」の結果であるからだ。「日本的」なるものにこだわって、議論を曖昧にし、問題を先送りにすると、日本はこの「時間がものをいう」世界の急速な変化に取り残される。

日本では様々な会議が開かれ、視察団は数限りなく諸国、諸組織を訪れ、制度・機構を勤勉に学び続けている。しかし、忍耐力のないアメリカ人は私たちにはっきり言うようになった。「でもいつになった何かが本当にできるの?人生あまり長くないし、時間はないよ……」と。こうした意見がもし広範に人々の中に忍び込んでいくとき、日本は世界の孤児になる。そしてそれは日本にとって不幸なことであると同時に世界にとっても損失なのである。

アメリカの教育の中で、子供たちが繰り返し言われることがある。それは、「リスクを取って危険を冒し、チャレンジしなさい」ということ、そして「あなたが一つ違いを作れるのよ」ということである。

民主主義というものは、冒険と夢のある市民社会のための開発途上の土壌である。逞しい市民が(女性が!)そのフロンティアを切り開き、造りだすことができる。

米アーバン・インスティテュート 研究員 上野 真城子 住宅政策研究者。日本女子大卒。東京大学大学院卒。工学博士。83年より家族とともにワシントン在住。共著に“Future U.S Housing Policy”等。

 

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更新日: 2011/01/30 -04:47 PM