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上野真城子関西学院大学総合政策学部最終講義

2005 年4 月より2013 年3 月までの8 年間、関西学院大学総合政策学部で教育に携わる機会を与えられたことを心から感謝し、今、大学および、日本を去るにあたっていくつか伝えたいことを話させてもらいます。

今日の講義の中では、おもに3つのことで述べてみるつもりです。ひとつは私の生い立ちから、若き日に私が何に関心を持ったのか、二つ目には、私が専門家として、社会に関与し貢献しようとしてきたことは何か、最後に、関学で教育という天与の職をいただき、私が心がけてきたことが関学のモットーとしての、世界市民の育成ということに重なり、その一部でも、次代をになう若者に伝えたいと思ったことをまとめてみます。

民主主義とデモクラシー:私の生き方の源にあるもの

原風景・東京の焼け野原から

私は、「戦後」と言うべきかわからないですけれども、68年、たぶん2万4905日を生き続けてきました。その2万4905日、何をしてきたのかということを最後の講義にあたって少し整理しました。というのも、戦前から戦後の日本を生き、時代に関わった人々、我が父母はもとより、兄姉たちが、今、去り逝くので、私があった人たちと時代を次の人たちに伝えておくのも、最後の役割であろうかと思うので、ちょっと長くなりますが、聞いてください。

私は1944年の10月、第2次大戦の末期、東京で生まれました。栄養失調の、お風呂で浮くような赤ん坊であったようですが、生まれて1ヵ月後、東京空襲が始まり防空壕に入って生き延びたのですが、意外に生命力のあったこどもであったのかもしれません。そして終戦からの昭和という時代をずっと見てきたということになります。私の原風景と言うべきものは、4歳ぐらいからの東京の山の手、目白にあります。これが私の記憶の早いころのものです。このブランコにのっているのが私でございます(笑)。

今みたいに憎たらしいことを言わない、とても可愛い、いい子でした(笑)。目白の焼け野原で、池袋が見渡せて、西武線が通っていて、線路の先に夕日が落ちるというような原っぱの中の戦後のバラックというか、小さな家でした。その後、周辺は住宅地となり、いわば典型的な都市の中産階級の成長とともに育ったことになります。

私の家族:父のこと

その原風景をかたちづくる、家族と住まいというものが、私にとって重要な意味を持っていると思っています。私は宗像誠也という戦後の日本の、民主主義と教育に多少の影響力を持った教育学者の娘として育ちました。50年代後半から60年代には、闘う進歩的文化人と言われ、保守右翼から叩かれた、東京大学教授でした。

この父の父、私の祖父にあたる人間は、柔道の創設者であった嘉納治五郎を師と仰ぎ、その薫陶を得て、柔道の精神の啓蒙と教育を担当して、大正、昭和と、その普及に力を尽くした人間です。昭和に入って、それこそ柔道ですから、日本のナショナリズムと関係があるのですけれども、教育勅語をうたって、「国のために体を鍛えよ」という精神修養を徹底していたようです。その中で父は堅苦しい教育を受けながら、東大で教育学に進みます。

今日の講義の中では、おもに3つのことで述べてみるつもりです。ひとつは私の生い立ちから、若き日に私が何に関心を持ったのか、二つ目には、私が専門家として、社会に関与し貢献しようとしてきたことは何か、最後に、関学で教育という天与の職をいただき、私が心がけてきたことが関学のモットーとしての、世界市民の育成ということに重なり、その一部でも、次代をになう若者に伝えたいと思ったことをまとめてみます。

民主主義とデモクラシー:私の生き方の源にあるもの

原風景・東京の焼け野原から

私は、「戦後」と言うべきかわからないですけれども、68年、たぶん2万4905日を生き続けてきました。その2万4905日、何をしてきたのかということを最後の講義にあたって少し整理しました。というのも、戦前から戦後の日本を生き、時代に関わった人々、我が父母はもとより、兄姉たちが、今、去り逝くので、私があった人たちと時代を次の人たちに伝えておくのも、最後の役割であろうかと思うので、ちょっと長くなりますが、聞いてください。

私は1944年の10月、第2次大戦の末期、東京で生まれました。栄養失調の、お風呂で浮くような赤ん坊であったようですが、生まれて1ヵ月後、東京空襲が始まり防空壕に入って生き延びたのですが、意外に生命力のあったこどもであったのかもしれません。そして終戦からの昭和という時代をずっと見てきたということになります。私の原風景と言うべきものは、4歳ぐらいからの東京の山の手、目白にあります。これが私の記憶の早いころのものです。このブランコにのっているのが私でございます(笑)。

今みたいに憎たらしいことを言わない、とても可愛い、いい子でした(笑)。目白の焼け野原で、池袋が見渡せて、西武線が通っていて、線路の先に夕日が落ちるというような原っぱの中の戦後のバラックというか、小さな家でした。その後、周辺は住宅地となり、いわば典型的な都市の中産階級の成長とともに育ったことになります。

私の家族:父のこと

その原風景をかたちづくる、家族と住まいというものが、私にとって重要な意味を持っていると思っています。私は宗像誠也という戦後の日本の、民主主義と教育に多少の影響力を持った教育学者の娘として育ちました。50年代後半から60年代には、闘う進歩的文化人と言われ、保守右翼から叩かれた、東京大学教授でした。

この父の父、私の祖父にあたる人間は、柔道の創設者であった嘉納治五郎を師と仰ぎ、その薫陶を得て、柔道の精神の啓蒙と教育を担当して、大正、昭和と、その普及に力を尽くした人間です。昭和に入って、それこそ柔道ですから、日本のナショナリズムと関係があるのですけれども、教育勅語をうたって、「国のために体を鍛えよ」という精神修養を徹底していたようです。その中で父は堅苦しい教育を受けながら、東大で教育学に進みます。

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更新日: 2013/06/05 -01:10 PM