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さくらとハナミズキ:尾崎行雄の遺したもの。


私たちは長い「国際別居」を経て、3年ほど前、逗子に終の棲家(?)を定めました。移って間もなく二人で散歩に披露山公園を訪れた時、駐車場の隅に、目立たない、ひとつの碑を見つけました。なんと碑には、尾崎咢堂の「人生の本舞台は常に将来にあり」が刻まれているではありませんか。
尾崎行雄(咢堂)は1858年(安政5年)に相模国(神奈川県)津久井郡又野村に生まれ、1954年(昭和29年)逗子で亡くなりました。行雄は1890年、第1回の総選挙から政治家として25回連続当選し、日本緒政党政治、民主政治の発展につくしたことは有名です。常に、権力に対する疑義を申し立て、民権闘争を率いてきました。私の関心はその反骨と民主民権の思想にあるのですが、実はもう一つ、尾崎が関わった二つの花のことがあるのです。

さくらとハナミズキ:尾崎行雄の遺したもの。 上野真城子
1.人生の本舞台は常に将来にあり      尾崎咢堂、逗子風雲閣にて(74才)
私たちは長い「国際別居」を経て、3年ほど前、逗子に終の棲家(?)を定めました。移って間もなく二人で散歩に披露山公園を訪れた時、駐車場の隅に、目立たない、ひとつの碑を見つけました。なんと碑には、尾崎咢堂の「人生の本舞台は常に将来にあり」が刻まれているではありませんか。
尾崎行雄(咢堂)は1858年(安政5年)に相模国(神奈川県)津久井郡又野村に生まれ、1954年(昭和29年)逗子で亡くなりました。行雄は1890年、第1回の総選挙から政治家として25回連続当選し、日本緒政党政治、民主政治の発展につくしたことは有名です。常に、権力に対する疑義を申し立て、民権闘争を率いてきました。私の関心はその反骨と民主民権の思想にあるのですが、実はもう一つ、尾崎が関わった二つの花のことがあるのです。
2.ワシントンの桜
 私は20余年、米国ワシントンのシンクタンクで働き、暮らしました。ワシントンの春を彩るさくらは、厳しい仕事の日々、心からの慰めでした。桜の時期だけは、オフィスの仲間に、日本人として大きな顔ができたのです。
 尾崎は1903年(明治36年)第一代目東京市長就任。東京市の改革に努力しました。1909年タフト大統領夫人の希望を知り、2000本の桜苗木をおくりました、が、これは失敗。1912年3000本再送付しました。これが現在のポトマック河畔のさくらの原本です。
 尾崎は東京市長辞職(1915年)後、憲政擁護運動。犬養毅とともに、「憲政二柱の神」といわれました。
 1919年60才の時、第一次世界大戦後の欧米を視察します。以後、平和主義、国際主義による世界改造の必要性を説き、普通選挙運動、軍縮、護憲運動、衆議院議員選挙改正などに関与します。1927年(70才)の時に披露山の風雲閣に居を定めました。「人生の本舞台、、、」と明言したのは74才のときです。戦後は1950年に渡米、米上院で歓迎されます。1953年(昭和28年)94才で初めて落選し、1954年10月永眠。享年95才でした。確かに、74才から、20年の本舞台でした。
    世を挙げて我を罵るきょうなれど 花のみ独り我をねぎらう   (1928年、昭和3年)
    依らしめて知らしめざるを好とする 人の招ける今日の国難   (1941年、昭和16年)
    生きがひもあらぬ身なれど長らへん 世に逆らひて世を救うべく (1945年、昭和20年)
    国よりも党を重んじ 党よりも身を重んじる人の群れ哉     (1950年、昭和25年)
                                    「民主政治読本」より
2.ハナミズキはどこに。
 この桜の返礼として、1915年(大正4年)白花種40本、赤花種10本のハナミズキが日本に贈られたのでした。ここに不思議な縁で、私の知人、アーティストの故峰与志彦氏が関わります。峰氏は尾崎の生地、津久井町にアトリエを作ったことから、尾崎の民主政治理念に深く共鳴し、実際は、当時優れた国際NGO活動をされていた尾崎氏の次女、相馬雪香氏(難民を助ける会)に接していました。そうした中で彼はこの忘れられていたハナミズキを見つけ出すことが、日本人の誠意を示す必須のことと考えました。桜は戦時中、敵国の花として、伐採の危機がありながら、ワシントンの市民によって守られたと言われます。
 峰氏は彼自身の平和運動として、この原木探しを一人でこつこつと5年をかけて調べ続けました。結果として、小石川植物園に数本確認されたとされます。(手島悠介著「友情の二つの花」)彼はそののち、ハナミズキを平和の象徴として広める運動の中で亡くなりました。
4.さようなら風雲閣  今、朽ち行くまま、、、。
 
 私は、披露山の碑を見た後、立て看板に書かれた、すぐ下の尾崎邸、風雲閣に関心を持ちました。許可を得て、邸内の風雲閣も見ました。今、この建物の復興は困難ですが、尾崎行雄の説いた、民主政治の在り方と、市民の政治意識の向上の必要性は、まさに今の日本に必要とされるものです。何とか彼の精神を受け継ぎ、この逗子の地に、彼の民主政治への情熱を具体的に残すことができないものかと思います。そして、いつの日か、ここにハナミズキがゆれる庭が出来たらと夢見ています。
(上野真城子、2019年2月、鎌倉プロバスクラブにてスピーチより抄録)

尾崎行雄略歴、(民主政治読本より抜粋)
明治元年、父行正新政府任間に伴い番町、平田塾、宮崎文庫英学校、明治7年ー慶應義塾、退学、福沢諭吉の推薦で新潟新聞主幹、明治14年統計委員検証書記官、(統計院総裁・大隈重信)明治15年立憲改進党の結成に犬養毅らと関わる。雄弁家として各地遊説。明治18年東京府会議員最年少26歳。朝野新聞。幕藩政治反対運動を展開、保安条例違反により東京退去命令。1890年外遊、米国、英国。議会制度見聞。明治22年、大日本帝国憲法発布。恩赦により、帰国。1890年(明治23年)第1回総選挙、三重県から立候補、当選。以後25回連続当選。1903年(明治36年)第1代目東京市長就任。東京市の改革に努力。繁子夫人死去。1905年英国育ちのテオドラさんと再婚。1909年タフト大統領夫人の希望を知り、2000本の桜苗木送付、失敗、1912年3000本再送付(現在のポトマック河畔の桜の原木)。返礼として1915年(大正4年)白花種40本のハナミズキが贈られた。(大正6年に赤花種10本)。尾崎は東京市長辞職(1915年)。憲政擁護運動。犬養毅とともに、「憲政二柱の神」1914年第一次世界大戦開戦。1919年(大正8年)60才、第一次世界大戦後の欧米視察。以後、平和主義。国際主義による世界改造の必要を説く。普通選挙運動、軍縮、護憲運動、衆議院議員選挙改正法に関与。1927年(昭和2年)70才の時に風雲閣に居を定めた。1932年渡米、渡英。満州事変勃発。テオドラ夫人死去。遺骨を携え帰国。1935年『人生の本舞台』著76才。1941年(昭和16年)1950年渡米、米上院で歓迎される。91才。1953年(昭和28年)初めて落選、94才。永眠、享年95歳。






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更新日: 2019/03/12 -07:46 PM