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市民よ、私たちが問われている - 「世界」(岩波書店) 1994年2月号

ノンプロフィットセクターの確立にむけて―
自分の国を批判するとともに、これを悲しみ、心にかけなければならない。自分の国の欠陥を直視するとともに、その長所を強化しなければならない。古ぼけたビジョンの持つ偽善性に気付くとともに、新しいビジョン作りに手を貸すことをためらってはならない。 ―J・H ガードナー

アメリカで考えること

子供たちの民主党大会

 

少し古いことになるが一昨年の冬、アメリカの政党の大統領候補選出選挙が始まって間もなく、当時こちらの小学六年生だった私の娘は、模擬民主党大会に参加した。これはワシントン周辺の私立六校の六年生が合同して、夏に行われる党全国大会を早めに模倣したものだった。各校が役割を分担し、クリントン、ソンガスなど、党の候補者がそろって政策を競うのである。子供たちは議員や選挙代理人となり、レポーターや新聞記者にもなって、候補演説に記者会見、パーティーまで実際の党大会のミニチュア版を繰り広げる。大統領候補のスピーチは国内外の多岐にわたる政策を掲げ本格的な論争であった。この時ミニ・クリントン氏は適役を得て圧倒的な強さを発揮し大勝、見事に本物を予見した。娘の学友(女生徒)はソンガス氏を模したので、模擬大会の前に生徒たちはソンガス氏の政策綱領を取り寄せ、学んだ。すっかりソンガス派となった娘は、彼の環境政策の方がよいのに、と当時は彼(彼女)の負けたことを悔しがったものである。四年毎の大統領候補は格好の民主主義教育の機会といわれ、一日がかりのこの模擬大会の中でも、政治ということ、政策ということを小学生たちはひとつ学んだと思う。この生徒たちの中から将来必ずや数人の政治家が生まれるに違いない。

 

この行事はアメリカの教育の一面を伝えるものだが、この、特に私立教育で(アイビーリーグの大学など、アメリカの私立大学はすべて、後述するところの、国から完全に独立した民間非営利組織である)、際立って印象付けられることは、教育の目的に個人の自立とその最大限の可能性の追求、そしてリーダーシップを取れる人間を育てる、という使命意識を持っていることである。クリントン政権は最近青年のコミュニティー・サービスと奨学制度をつなげて新しい政策を実施し、また多くの中高等学校ではコミュニティー・サービスを正規の単位に加えている。リーダーシップとコミュニティーへの貢献の重要さを考え、それを意識した教育がおこなわれているということは、アメリカ社会の可能性を推し量るときに無視することは出来ない。

実験国家の苦悩と希望

 

日本には今アメリカ嫌悪の気運がある。貧困、飢え、ホームレス、人種差別、銃による殺人、AIDS、麻薬――一体アメリカはどうなっているのか、と。他国のことをどうこう言う前に時刻をどうにかしたらどうか、と。

 

アメリカ社会は確かに実に多くの問題を抱えている。次々と沸き起こるように問題が出てくる。ただ忘れてならないのはアメリカは人工的に「発明」されてから、国家として二百年の歴史しか持たない国であることである。二億五千万の人口、毎年百万近くの正規の移民(訃報にはこの他に二百万以上が入国しているといわれる)と七万前後の難民を受け入れ、あらゆる国籍を背景とした人々からなる未だ建設途上というべき国である。そしてその国を選んだ人々がすべて、個人の人権と自由を求めて生きることをどう可能にするかという、人類史の実験を続けている国である。これほどの問題でよく済んでいるとさえ思う。

 

アメリカ社会が自らの歴史に誇り、成功していると考えていることの中には、三つの重要なことがあるだろう。それは?個人の生命、自由、幸福の追求を、理念の中心に据え、それを求め、今のところ世界で最大限に認める国として、国家の歴史を切り開いてきたこと、?個人の自由、人権と国家の在り方の最善を希求する上で、三権分立を基礎とする民主主義制度を最良のものとしてとらえ、検証しつつ、定着させる努力を続けていること、そして?資本主義市場中心主義経済が最善の経済体制であると確信していること、である。

 

しかし、アメリカの偉大な実験とアメリカの夢は、時代の中で容易なものではなくなっている。そしてアメリカのリーダーシップがますます重要性を問われて来る。クリントン大統領がどこまでやれるかは、しかし一方でアメリカの市民が、どれだけアメリカとそして世界の問題を理解するか、そしてアメリカの民主主義を考え続けるかにかかっている。リーダーが優れてあるべきなのと同時に、よきリーダーを持てるか、よき政治を持てるかは、市民に委ねられているからである。

 

民主主義とは、その市民が自ら望む国家をつくることが出来る。”今のところ”最善の制度である。市民はその市民に見合う政府を持つ。アメリカの圧倒的強さはほかの国とつらべ手、民主主義への熱意と努力の蓄積、リーダーシップをさせる頭脳と力があることである。社会の問題を解決するための最良の源泉――それは考え、行動する市民の存在であり、社会の活力とは個々の市民の活力の総体以外の何物でもない。アメリカには変革の意志と能力を持つ市民がプールされている。それがアメリカの市民社会なのである。

日本は何に成功したか

 

日本は豊かになった。忍耐強く勤勉で器用な勤労者が高品質の製品を生産に、世界の市場に出し、売ることによって世界に冠たる金持ちになった。島国という条件を利点として、世帯間所得格差の少ない、貧困を極小化した、表層的に極めて均質で安全な社会を造った。住宅は数を満たし、金と物に恵まれ、海外旅行も出来るようになった。しかし一方で家族は物に埋もれる狭い家で、騒音と車と建物に覆われる町に暮らし、人間性を奪う「通勤」と狭い戦場で働き続けている。母親たちは家族で子供たちを企業戦士として社会に送るべく膨大な努力を払っている。これが日本の経済発展の結果である。そしてその経済発展の故に外からの注目が増え、交流も増えた。しかし日本の誇りにも関わらず、なぜか信頼と、尊敬と好感を持って迎えられていない。日本は成功したはずである。何が問題なのか。

 

問題は二つの側面を持っているだろう。ひとつは国の内部の人々からの、自身の豊かさへの疑問である。現在の社会の停滞と、政治の圧倒的な貧困は、この「豊かさ」が自分たちの望むものであったのか、あるのか、そして将来にも希求するものなのかが、わからなくなっていることである。

 

もうひとつは、外からみて、日本の経済成長と現在および将来的にも十分に強いと思われる経済力への羨望期待とは裏腹に、それに見合う振る舞いと知性――リーダーシップが育って来たのか、という疑問である。問題は、一国内がうまく治まっただけでは済まなくなっているという世界の状況に、不用意に立たされてしまったことである。われわれ日本人は、世界が見えない中で、世界を考えない中で、ここ数十年を暮らしてしまった。そして気がつけば、否応もなく世界というコミュニティーの強力な成員として暮らさなければならないにもかかわらず、そのコミュニティーのルールもまだ読んでいず、わかっていない状態で、ものを言い、行動しなければならないということである。

 

日本の成功は、経済成長にある。日本型発展モデルというものが定義できるとするならば、それは個人所得の上昇という極めて限定的なものである。それはそれで非常に重要であった。しかしそれだけでは、人々の「生活の質」の向上と豊かさを生み出せなかった。その原因は経済尺度以上の希求すべき価値と尺度を持たなかったからであり、そして生活の質の向上を目指す治め方、治められ方がなされなかったからである。すなわちそうして政治がなかったからである。

「政治は市民の共通目的に奉仕し、市民の最大公約的願望を実現するための市民自らの手立てである。……自由な市民たちが自己を主張し、他人との利害対立を調節し、共通の目的を追求するのは、まさに政治討議の場においてなのである。これ以外の場では、またこれ以外のいかなる方法によっても自由市民は、対立不可避のお互いの利害、目的の調和をはかることは出来ない(注2)。」

 

民主主義社会とは、その政治を、社会の成員たる人々が、どのような社会を目指すのか、どのような政策が、すなわち治め方治められ方がよいのかを、市民が決めることが出来、市民が決めなければならない社会である。民主主義政治では政策が必要で、政策が明示され、議論され、決められなければならない。日本の政治ではこの当然のことがなされて来なかった。

 

しかし実際には政策は造られ、決定されてきた。政策は日本の官僚によって考えられ、造られ、実施されてきた。日本の行方と政策を本質的に決定してきたのは、日本の官僚である。政治家は政策を立法化する手続き人に過ぎなかった。その手続きにおいて権力と金が動くことを政治と考えてきた。治めることを委託した者も、委託された者も関与しないままに、行政機構が政治を推進してきた。日本の所得上昇モデルの成功は、日本の優れた官僚制の成果である。(注3)

官僚制と企業社会を支える文化

 

この日本の政治状況が生まれて来た背景には、日本の文化があるが、特にその集団主義に帰するところが大きい。集団主義は、個人の自由、自立、責任、「アカウンタビリティー」(帰属責任の明瞭性)を問わない。この集団主義が、日本の官僚制度と企業社会に適用されたとき、極めて有効性を発揮し、日本の経済成長の原動力となったのである。この集団主義が最も問題なのは、それが個々に閉鎖的排他的で、情報を占領し、偏狭な競争性しか持たなかったことである。日本の官僚制度は、民主主義社会の成員の政治への参加について一顧だにしなかった。また企業社会は、官僚制に従属しつつ、個別の利益を最大限に得て来た。企業はその属する企業集団の利益のみに関わり、民間の自由な競争による市場の形成ということ、そしてそれが民主主義政治という基盤の上で可能であるということには、まったく関心を持たなかったのである。日本の集団主義は個人の責任をあいまいにしながら、同時にその中にいる個人が、最大の権力と便益と安全さを享受できる態勢を生み出した。そして多くの日本人は、子供を最終的にはこれらに奉仕するのに最適な人間を選抜する教育競争に駆り立てて、この社会を強力に支えて来ているのである。

 

この集団主義の精神が、もうひとつの日本人の価値観である、純化と純粋性への信奉に結び付いたことも重要である。純化と純粋性を優先させることは、混ざり物を排除し、差別を許容する。これを適応させることで、日本は高度の芸術、技術、そして高質の労働を生み出した。しかしこれは異物、批判、論争を排除していくことによって長期的には脆く弱くなる。これは日本の思想形成や学問、知識の在り方にもいえるだろう。

 

加えて日本には相当に強い人種、性差、文化への差別意識がある。それを取り除くのが非常に困難であるのは、日本文化が純粋化を優先させ、選別、順列とヒエラルキーを価値とし、それに権威を与えてきたからである。これを許してきた土壌は、個人の自立の弱さ、個人の国家への従属であり、強い個人、市民の自由への希求が存在しなかったことにある。

 

個人の経済発展の自由は国家によって支持される。しかし市民の政治的自由は、国家との対峙の意識なしには発展しない。人種、制度、価値、国家、すべてにおいて多元化し、多様化する世界において、この日本の価値観が普遍性を持つことは難しい。そしてこれに頼れば再度、偏狭な国家主義の台頭と孤立化を免れないだろう。この集団主義の殻を崩していくこと、そして官僚、企業中心社会を変えることが、現在の日本にとって不可避の課題である。

ノンプロフィット・セクター 柔らかな変革への制度と装置

市民社会というもの

 

二十年以上も前だが、カーター政権下では長官を勤めたJ・W・ガードナーは「政治の腐敗は、市民自らの責任であり、それ以外の誰を責めることも出来ない。……市民は、政治を皮肉るような言葉によって政治に対する自己の無関心の言い訳をする。しかし、市民が自らを治めるという過程に怠慢であるという事実は、いかなる言い訳によっても隠蔽することは出来ない。……政治を腐敗させ、硬直化させ、民主の反発を妨げてきた現況は、ほかならぬ市民自身である。政治の堕落を非難する前に、非難されなければならないのは、堕落を許してきた市民自身である(注4)。」として、当時汚職に満ちていた政府機関を監視し、政府を正直、オープン、アカウンタブルにすることを目的とした市民組織コモンコーズを作った。この市民組織は大統領選挙の資金財政改革、議員動議基準、議員資産公開法などを決定した原動力として今も活発に活動している。

 

日本の政治は、貧困からようやく変革への試みを始めている。現在の政治改革は、政府統治機構が、選挙民からの批判を受けつつ、しかし本当のところない分の腐敗で機能の欠陥が明らかになり、行き詰まることを予感したことによっている。この内部腐敗はある意味で当然の帰結であった。人間のつくる組織、機構、制度は、外部からの監視、批判、競争がない限り、長期的に存在し続けることはほとんど不可能だというのが、歴史から学べることのひとつである。今回の統治機構の自己改革に期待するが、ただそれだけでは不十分であり、同じことが繰り返されることは明らかである。なぜなら、統治機構を監視し、批判し、腐敗を阻止し、そして創造的建設的なアイデアを注ぐことの出来るのは、統治機構の外にある市民力、市民社会であるからだ。

 

民主主義の発展は市民の選挙投票能力にかかわっているが、統治を委託するばかりでなく問題を解決するためには、自発的随意的創造的に市民が連携し、政治に参加し、同時に市民の負担を強めるという悪循環を生む。市民の自立と参加は社会制度の生命力を確保するものなのである。ではその統治機構の外の市民力、市民社会とは何をもっていえるのか。

アメリカの市民社会

 

アメリカ社会の経済活動は主体別から三つのセクターに分類出来る。すなわち第一が公共・政府セクター、第二が民間営利セクター、そして第三がノンプロフィット(民間非営利)セクターである。いうまでもなく公共・政府セクターは国家が主体の、基本的に国民の税金による経済活動であり、民間営利セクターとは民間企業主体の利潤追求を最大目的とする経済活動である。社会主義計画経済国家では、経済活動のほとんどが公共セクターでなされてきた。資本主義自由経済国家では、民間営利セクターの経済活動が大きな比重を占める。ほとんどの国々がこの二つのセクターで経済活動全体を説明できる。しかしアメリカの場合、もうひとつノンプロフィット・セクターが明瞭に識別される。(注5)

 

このアメリカに顕著にみられるノンプロフィット・セクターとは、完全な公共財政に依存するものでなく、また営利を最大目的とする企業活動ではない、しかし社会にとって必要な公益的目的を担う、民間による経済活動領域を指している。統計的に見れば、1990年の国民総所得のうち約7パーセントを占めている(図1)。これを雇用者数でみるならばこのセクターは全算定雇用者の7パーセント、ボランティアの時間を雇用に換算して加えれば12パーセントを占めるセクターである。この数値の見方は議論のあるところだが、この社会的に持つ意味は大きい(注6)。

 

このセクターの最大の特徴は、その経済が主に市民の献金と市民の労働提供によって支えられていることにある。例えばセクターを代表する活動のひとつである社会福祉サービスの分野でみれば、活動のための収入源の三分の二が、個人・民間企業・財団・基金などからの献金で、その他は提供するサービスによる収益と、政府補助金などによる。  このセクターの活動はノンプロフィット・オーガニゼーション(民間非営利組織・NPOと略)と総称される民間の様々な団体組織によって行われている。これらの組織は、社会福祉、地域・住宅・経済開発、研究、教育、海外援助、放送・メディア・文化芸術振興まで、広範な活動で、草の根の市民団体から図書館、博物館、大学・教育機関、交響楽団、レクリエーション施設、自然保護、歴史保存、病院医療機関、禁酒、宗教組織、財団まで含められ、現在アメリカで約六十万組織程が存在するといわれる。これらの政府行政とまったく独立した民間の組織が、法人格を持った経済単位として、広く公共の利益に拘る非営利(営利を最終目的として追求しない)の活動を展開しているのがノンプロフィット・セクターである(図2)。

 

しかしこうした活動は営利を目的としないというよりも、営利が上がらないか上げられない活動であるともいえ、その経済活動は資本主義経済のなかで困難を極める。そこで制度的にはNPOは免税団体として、所得は非課税とすることができる。組織は個人や企業に献金を請う事が出来、献金する個人や企業はその献金を税控除の対象とすることが出来る。これらの法人組織は収益をあげられるが、それを個人に還元してはいけない。

 

アメリカ社会の歴史上重要な発展と変革は、このセクターに理念と行動の原点を置いている。奴隷解放、児童労働法、女性選挙権、公民権運動、女性解放運動、消費者運動、障害者権利運動、環境保護運動などはすべてこのセクターが生みだしたものである。消費者、アフロ・アメリカン、女性、高齢者、障害者、子供など、すべてある時代の社会においての少数者である(であった)。社会の変革は往々にそうした少数者からもたらされる。しかし少数者が物理的力を唯一の解決方法とせずに、マイノリティーの声を多数に届かせるために、それを可能にするシステムがなければならない。民主主義社会は公正な選挙制度とともに、一個人から生まれる変革の声、アイデアを、少しずつ広げ、多数者、マジョリティーとするシステムを持たなければならない。少数者のアイデアの誕生・創造性を許容し、資本主義経済社会のなかで、それを修正しつつ、アイデアを成長させられる、柔らかな変革を可能にする「産業」と仕組みが必要なのである。アメリカのノンプロフィット・セクターはこの機能を担っている。

 

フィランソロピーと民主主義

 

ノンプロフィット・セクターの主な経済基盤は個人や企業からの献金だが、これをフィランソロピー、またはフィランソロピック・マネーと呼ぶ。このセクターにとって「フィランソロピー」は不可欠である。しかしこれは日本に移しにくい言葉で、「博愛」「事前」という訳語は今ひとつなじまない。ボランティア、コーポレート・シチズンシップという言葉も同様だが、これを定着させるのには文化価値観の変化を伴う、時間が必要である。しかしひとつ明瞭にしておかなければならないのは、アメリカのフィランソロピーが民主主義社会との関連のなかで存在することである。

 

長くこのセクターの振興に尽くし、NPOを代表するNPO組織「インディペンデント・セクター」をガードナーとともに造ったオコネルは、フィランソロピーについて次のように語っている。

「市民社会、民主主義、個人の自由をどう守り続けるかということをアメリカ社会は非常に大切にしている。そのことを無視し、ないしは知らずにフィランソロピーを語ることは出来ない。また市民とその責任というとき、アメリカ社会の基本的価値観をまず確認しておかなければならない。その価値とは、自由、個人の財産と個人の尊厳の尊重、機会均等、そして相互扶助である。――アメリカの民間のフィランソロピーについて学び考えようと思うならば、必ずこれらの基本的価値観と社会制度について注意を払わなければならない。フィランソロピーはこれらの価値観と制度機構に奉仕するものである。そしてフィランソロピーは個人にその表現、創造性、他の判断や価値、代替し得る観念、批判、改革、そして逸脱と思えるものでさえも助け支えるものとしてある(注7)。」

 

フィランソロピーは「普遍性」への投資といえると思うのだが、アメリカの場合、フィランソロピーはいわばノンプロフィット・セクターのためにあり、特に民主主義のためにある。

 

フィランソロピック・マネー、献金はセクターの活動収入の約4分の1強を占める。1990年でみると献金総額は1226憶ドル、そのうち個人によるものが83パーセント、個人遺産によるもの6、財団6、企業5パーセントとなっている。同年の国民一人当たりの献金金額は409ドル、一人当たり年収の2パーセント強であり、世帯当たりにすれば734ドル、年収の2.5パーセントである。ボランティアによる労働提供も重要で、世帯当たりのボランティア活動に割く時間は平均週4.2時間である。また企業のトップ経営者のボランティア活動はある意味で当然のことで、有名大企業の経営者が、NPOの五つや六つの理事でなければその市民性を疑われる。いうまでもなくこれは無料の奉仕で、勤務時間以外で平均週四時間になるといわれる。それは所属企業から離れた、独立した「アズ・ア・プライベート・シチズン――一民間市民として」の活動で、それが信用につながる。

 

個人によるフィランソロピーとともに財団と企業によるフィランソロピーが果たす役割は大きい。財団や企業のまとまった資金は大きな社会的問題、先駆的試みを支えられるからである。事実アメリカの社会問題の解決や政策研究を支えて来たのは、財団の力であったといえる。

 

市民公益活動の制度化

 

アメリカのノンプロフィット・セクターが果たしている機能は日本的には公共対がやるべきもの、ないしは民間公益法人が果たしていると考えられるかもしれない。または公共も営利企業も埋めることの出来ない間隙を埋める活動、ないしは市場の失敗、公共の失敗を補完するものというとらえ方もある。おそらく公益活動には、?公共が果たし得るし、公共でも民間でもよいものと、?民間(非営利)の方が優れている、ないしは民間(非営利)が担うべきものとがあり、これを「市民による公共の利益への関心と関与の活動」ということが出来るのではないだろうか。これは茫漠としているが、むしろ広範であることが大切であろう。

 

しかし特にこの中に民間(非営利)が担うべき、公共が介入するべきでない、ないしは公共が出来ない公益活動というものが存在することを見逃してはならない。その代表的なものは政府(及び企業)の活動を監視すること、そして様々な立場、少数者の意見を代弁する活動(アドボカシ?機能とよばれる)、すなわち民主主義を支える活動である。

 

日本は、市民に公共への関心と関与の活動というものを奨励したり育んでは来なかった。公共体の活動や企業活動と対等なものとしようとしなかったばかりでなく、むしろ抑圧ないしは無視してきたのである。これを制度的に保障し、こうした活動が尊敬される「市民権」を得なければ、日本の市民社会は成長できない。日本の民間非営利の公益法人とその活動が問題であるのは、現在の民法上の主務官庁による認可という規定によって、日本の民間非営利組織の目的とする公益性は、政府行政官庁の目的に合致し、「主務官庁益」に奉仕する、統治機構の拡大に結果していることにある。

いくつかの提案

 

ノンプロフィット・セクターの整備は現在多くの国々、特に東欧諸国を初め、旧社会主義圏の国々で始められている。草の根の海外援助や国際貢献、多国間の活動協力の必要性からも、こうしたセクターの整備は急がれなければならない。さらに見落とせないことはこのセクターの経済活動としての意味である。セクターが生み出せる組織は相当の量となり、この法人化による経済効果は大きい。非課税と税控除による税収入の減少が問題となるかもしれないが、短期的には経済活性化の力になるだろう。そしてアメリカに実際に見るように、このセクターの整備は雇用の場を広げ、セクター間の雇用・人材の移動を可能にし、かつ埋もれている女性労働や今後の高齢化社会の労働力を活性化し、その生きがいにも大きく役立つはずである。

 

紙幅の関係から詳細は省くが、新政権には緊急に制度を整備するための審議を始めて欲しい。現在ある民間での動きをもとに(注8)「市民公益活動制度検討委員会」を設置し、ここに関連する市民活動の代表、民間非営利組織関係者、学者研究者、企業関係者、そして海外の専門家などを集め、制度、活動、組織の規定、申請、許可規定、許可期間(国税庁が最適であるのか)の検討、税措置、他国との整合などを一年ほど検討する。これは現在の民法、特に主務官庁規定を取り除く改定と、非課税規定、税控除規定などの税法の改正を必要とするだろう。

 

制度が出来た隙に、ノンプロフィット・セクターの成長と強化のために重要な役割を果たす組織、いわば仕掛けとなる装置も必要である。セクターの情報を集めるクリアリング・ハウスも必要である。また制度が整っても日本で即刻に個人からのフィランソロピーを期待することは無理である。未だ実績が積めない市民組織に対して、個人にしても企業にしても直接に献金をすることは躊躇されるからである。そこで資金の流れを作る「フィランソロピー開発銀行」といったものを設ける必要もある。市民による公益活動を資金的(技術的、情報的)に援助するもので、公共の資金、企業献金、個人献金をまとめ、全国に10前後の分権化された機関とし、地域の需要に基づいた市民の公益活動に資金を貸し付けるものである。日本の現在の土壌として公共の資源からいっさい離れて何事かが始められるということは不可能である。公共の資源と蘊蓄を使いながら、独立した活動とフィランソロピーを成長させるという、矛盾があるが面白い日本特有の過程が待っている。

「知」の「治」への装置・非営利独立型シンク・タンク

 

もうひとつ、独立型シンク・タンクがある。今取り組まれた日本の政治改革は必要だが、真に政治の中身を変えて行くには、中身たる政策が議論されねばならない。ところがそれにはまだ議論になる政策と代替案が準備されていない。日本の優れた官僚制は、シンク・タンクの役割をも果たしてきたといわれ、日本には政策代替を生み出せる本格的なシンク・タンクは育っていないのである。独立型シンクタンクは、特にアメリカの民主主義政治における政策形成に重要な役割と機能をはたしているが、こうした組織の設立が、日本の社会政治の変革に不可欠である。

 

昨年来アメリカのシンク・タンク・アーバン・インスティチュートは議論のたたき台としてモデルを提案してきた(注9)。これは、民間非営利独立型、百名以上の常勤研究員(大幅に外国人研究者を導入)を擁し、大型の基金をもとに、グローバルな政策課題の研究と提言を行う機関というものである。要は日本に、政府からも、民間営利企業からも独立した立場で、科学的知識と情報をもとに、政策研究、評価、代替案を提示する、政策研究機関を作る必要があるということである。

 

独立型シンク・タンクは、独自の問題意識において政策課題を設定し、政府の政策を科学的に評価し欠点を指摘し、修正と代替提言すること、そしてさらにそれら政策の問題を政策担当者はもとより、人々・市民に広報宣伝し、議論を起こし、理論を広げ、実際の政策に影響を及ぼして行くことを使命とするものである。独立型シンク・タンクの長老格にあるブルッキングス研究所は、75年以上前に「政府」を研究対象とすることから始まっている。その使命には「(ブルッキングスは)様々な社会経済問題についての学問的研究と提言をもって米国の人々に奉仕することを目的とする。研究は政策の代替案を出し、既存の制度・政策などの弱点を明らかにし、問題の広範な理解を推し進めることに影響を及ぼすものである。”何が機能するか。何が有効か。”という問いに答えることを、立法者や議員、官僚や政党に――彼らがどんなに優秀であろうとも――任せてはならない。」と謳われている。

 

クリントン政権は大変である。この四半世紀をみても問題は増えて来ても減ってはいない。しかし一方ここ25年ほどで政策研究については、実験事業と評価を積み重ねながら、情報と分析手法が整備され、政策の費用と効果はより的確に把握できるようになり、可能な政策に選択しが揃って来た。「完全な」「完璧な」政策はない。これからはどれだけ合理的適切な政策と代替案があるか、そしてそのうちのどれを選びだすかがリーダーの責任となるのである。その意味ではクリントン大統領は二十五年前よりはるかに仕事がやりやすくなっているといえる。日本にもこうしたシンク・タンクを早急に幾つも持つ必要がある。

 

対等に組む次代を育てるために

 

どの社会も、社会に無関心で政治に無知な市民だけとなったら、その社会の存在は危うい。こうからは一国の枠を超えて世界が危うくなる。アメリカ社会には山積みする問題のあることは明らかだが、それにもかかわらずこの国へ人々が来るのは、そこに自由と可能性への挑戦の機会があり、民主主義があり、それを守ろうとする市民力と市民社会があるからではないだろうか。

 

中学生となった娘が最近、「日本とアメリカが本気になって組めば、ものすごい良いことが出来るはずなのに」と言うようになった。幼児期にアメリカに来てこの国に生きる苦労をし、また外から日本の社会に入った若い経験も経て、双方のよさと同時に相互理解の難しさも覚えての感想のようだ。

 

確かに、本当に分かり合い、その良さを最大に発揮し、より高い目的に向かって共に働くためには、相当の時間をかけ、世代をかけて努力をしなければならないのだろう。私たちの国家は、アジアに対して戦争中に行った非人道的行為を、事実として認め、謝罪するのに半世紀をかけた。国家としての無責任態勢に主因があるが、その時間を許した市民社会の弱さにも原因がある。

 

私たち戦後世代は特に、今私たちの子供を次の時代に向けて、本当に世界に向けて、責任を引き受け、貢献出来るように育てているだろうか。創造的で自立的で自由で、貧困に苦しみ人口の増大に戦う世界を助ける次代の子供たちを育てているだろうか。世界の次代とともに考え、ともに行動することのできる子供たちを育てているだろうか。そして、女性たちは、高齢者たちは、希望のある変革へのエネルギーに満ちた、生き生きとした社会に生きているだろうか。

 

市民社会の創成は私たち自身への、そして真に次代に対する私たちの責任である。

  • (注1)J.H.Gardner(1972年)、「In Common Cause」W.W.Norton.inc. 日本語訳は加藤幹雄・国弘正雄(1977年)「コモンコーズ」サイマル出版会出版。あわせてJ.H.Gardner(1990年)「On Leadership」FreePress参照。
  • (注2)(注4)同上
  • (注3)The World Bank (1993年)「The East Asian Miracle」は、日本の経済成長の要因のひとつとしての官僚制の長所と問題を指摘している。
  • (注5)このセクターの呼称にはサード・セクター(日本でいわれる第三セクターとは異なる)、インディペンデント・セクター、またフィランソロピー、ボランティア・セクターなどいろいろある。P.F.Druckerは「ポスト資本主義社会」で社会セクターと呼んでいる。私はこれは市民セクターと考えるのだが、ここではアメリカでもっとも一般的なノンプロフィット・セクターを使った。
  • (注6)統計は Hodgkinson, el al.(1992年). Nonprofit Almanac. Josse Bass. 図は上野作成。
  • (注7)Payton. Norvak O.Connell. and Hall(1988年)「Phlanthropy:Four Views」Transaction Books.
  • (注8)現在自立的市民公益法人である(社)奈良まちづくりセンターが総合研究開発機構の委託を受け「市民公益活動基盤整備に関する調査研究」をまとめている。
  • (注9)Raymond Struyk. 上野真城子、鈴木崇弘編著(1993年)「A Japanese Think Tank Exploring Alternative Models」The Urban Institute(日本語版は近刊予定) Raymond Struyk. 

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更新日: 2011/01/26 -02:23 PM